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古本LOGOS
いわしの読書日記改め、古本屋&ブックカフェ通信
18 January
海を見に行く
初夏の頃から、我が家の柴犬(4歳・♂)の散歩が日課になった。これまでは田んぼや山へ連れて行ったらしいが、私は海に向かって散歩をしている。
私が育ったのは三条市の中心部で、五十嵐川と信濃川が合流する平野の真ん中だったから、海というのは「一時間くらいかけてわざわざ出かけていくところ」であった。しかし、この奥能登・珠洲(すず、と読みます)の私が暮らす地区では、海はとても身近にあるくせに結構忘れられている。これが外浦に面する輪島や狼煙なら海は生活の糧を得る一部であり、それを目当てに観光客も訪れる。しかし今私の暮す地域は農家も多く、すぐ側に田んぼや畑が広がってるその一本道をはさんだところに、いきなり海が広がっている。これは私の常識をくつがえした。
とにかく、この歩いて7,8分のところにある海を見に行くのに、犬の散歩というのはうってつけである。夕方ぶらぶらと歩いていても怪しまれないし、もしかしたらパトロールにだってなるかもしれない。
酒屋の横の空き地を横切り、海のすぐ側にある畑の脇を歩いていくと、もうそこは日本海。海と陸を隔てるのは形ばかりのコンクリートの塀であるが、大津波があればひとたまりもない。ここは夏には学校指定の海水浴場になる(プールがないので)。晴れた日には立山連峰が美しく映え、山の稜線を左に追っていけばそこは懐かしの新潟県。なぜ今自分がここにいるのかを考え出すときりがないが、やはりこの日本海に呼ばれたのだろう、と心の中では納得している。
ここの海は、本当に裏口の勝手口のように、かまわれずにそこにある。一歩足を踏み出せば異界が広がる、そんな感じをわかってもらえるだろうか? 朝のかはたれ時、夕のたそがれ時に海際を歩くのは素晴らしい。波打ち際のぎりぎりの所を、朝夕の境目のぎりぎりの時間に歩いていると、なんとも不思議な心持になる。
この12月の大雪の時、何度か雪をふみわけて海までいった時、砂浜は一面に真白に染まり、海の色は灰色で、波がやってきたところまでで色がくっきりと分かれていた。犬が側にいなければ、心惹かれるままに海のほうへ足を踏み出していたかもしれない。この奥能登で犬を従え、二人の子どもと家族を抱えて目や耳にするさまざまな出来事や言葉、そして聞こえない音のことなどをこれから折にふれお伝えできればと思います。
(「みずすまし通信」2005年12月号掲載)